御命講と玄妙寺

御命講や油のような酒五升
          菊鶏頭切り尽しけり御命講

ともに俳聖芭蕉の句である。御命講(おめいこう)と御会式(おえしき)とは同義語であり、会式とは法会の式の略であり、御命講は御影供(みえいく)→御影講から転訛したものと言はれている。御命講とは鎌倉時代の傑僧、法華経の行者日蓮聖人の忌日に当る10月13日とお通夜の10月12日の夜、日蓮系統の宗徒や信徒によって営まれる報恩の法会のことである。

句の意味は日蓮聖人の祥月命日に当る御命講の祖師像の前に、聖人が生前お好きだった油のようなとろりとしたいいお酒が五升ほど供えられているの意。

後句は御命講を迎えて、お寺や坊の境内に咲き残っていた菊や鶏頭が供花としてすっかり切りつくされた風景を詠ったもの。

ところで現代では御会式という言葉が多く使われているが、古い方の名称の御命講が昔から続いているお寺が見付の町にある。今から約600年前の室町時代(1385)日什上人に依って建てられた玄妙寺で、日蓮宗由緒寺院本山の格式をもつ寺である。

御命講

ここで毎年、月おくれの11月12日に奉修される御命講がそれで、同じ日に子育ての神、鬼子母神の祭りもあわせて行われ、寺で授与する子育てぞうりは昔から土地の人々によく知られ、又親しまれている。この両日近郷、近在の若いお母さん方が、生まれて間もない赤ちゃんを連れて、家族と共に三三、五五お詣りして、仏前から小さなぞうりを受けて帰り、家に帰ってそれを赤ちゃんにはかせ、翌年二足にして返す風習である。ぞうりは健康と無事、息災のシンボルなのだ。どうかこの子が丈夫に育ちますようにと仏前に祈る両親の姿は、いつの世にも変らぬ素朴で尊い子を想う親心のあらわれである。

日蓮聖人が、武州池上の郷(現在の東京池上本門寺)でその苦難と法悦の生涯を終えられてより七百有余年。玄妙寺に於いては11月12日に子育てぞうりを授ける御命講の行事が例年通り行われ、参詣の人出が予想される。特に12日の夜は一番賑やかである。

どうか生後間もない赤ちゃんをもつ若い御両親方、昔から郷土に伝わる宗派を越えたこの素朴で奥ゆかしい祭りに御出掛けになりお子さま方の無事成長をお祈り下さい。 

合掌

子育て(子安(こやす))詣りとは、子を愛する親の心の行事。
親に愛された子は必ず親を愛し、ひとを愛します。南無妙法蓮華経

   御命講の寺 子育て母形鬼子母神奉安
日蓮宗本山玄妙寺


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見付 玄妙寺
   お命講子育てぞうりについて

子育てぞうり

元中2(1385)年経巻相承、直授日蓮で知られる日什上人によって開創されて以来600余年の古い歴史をもつ当山に於いて、毎年11月12日に奉修せられる御命講(宗祖日蓮大聖人御報恩御会式)には子育ての神として知られる母形鬼子母尊神の大祭もあわせ行われますが、その際小さなわらぞうりを参詣者に授与するならわしがあり、江戸時代(年代不詳)に始まり、今日まで続いております。

玄妙寺の子育てぞうりに就いては民族学者として有名な柳田国男先生の著書にも紹介されています。

ぞうりを受けるのは、主として乳幼児をもつ若夫婦が多く、この子が、早く歩けますように、又無事にすこやかに育ちますようにとの願いをこめて、仏前からこのぞうりを頂いて持ち帰り、丸一年経ったお命講の日に感謝の気持ちでお礼のお詣りをするという風習で、近郷近在の人々から「お命講のおぞうり」として親しまれています。

又、ぞうりとともに知られている小さな着物は、子宝に恵まれない夫婦が、御祈祷を受けこの着物を頂いて帰り、夫婦の夜具の下に敷いて置くと、子宝に恵まれるという云い伝えがあります。

「あきらめていましたがお陰で子どもが産まれました」と御礼参りに来る御夫婦が多く見られます。

子に過ぎたる宝はなし
世を救う三世の仏の心にも 似たるは親の心なりけり