日什上人(1314〜1392)は正和3(1314)年4月28日、奥州会津郡黒川(現在の福島県会津若松市)に出生。父は石塚太郎覺知、母は会津城主葦名四郎盛宗の娘清玉姫で身分の高い武士の長子として誕生されました。
上人は幼名を玉千代丸、長じて権太夫国重と名乗られましたが、15歳の時相次いで両親を亡くされ、19歳の時出家して比叡山横川の慈遍僧正のもとに入室され、名を玄妙と改めて勉学修行に励まれました。38歳の時早くも比叡山学頭に抜擢され、玄妙能化(師範・教授)として比叡全山に名声を博しました。
58歳の時叡山を下り故郷会津に帰り、会津城主葦名氏の懇請により羽黒山東光寺の山主となられ、東北一帯の学僧に天台教学を講じられていました。
天授5(1379)年〔北朝康暦元年〕66歳の時、日蓮大聖人の「開目抄・如説修行抄」の両部を感得し、確然として名を「日什」と改め、翌67歳の時日蓮宗の門に下り千葉下総真間弘法寺に帰伏して、真間能化となられました。68歳の時、上洛して第一回の奏聞をなし、洛中弘通の綸旨を賜り二位の僧都に叙せられました。69歳の時、鎌倉にて関東管領足利氏満に宗義を直訴されました。その折、同地埋橋に本興寺を創建されました。同年上洛し第二回の奏聞をなされました。70歳の時、京都室町に小庵を構えて洛中弘法に専念し、二条関白殿下に第三回目の奏聞をなされました。
元中2(1385)年〔北朝至徳二年〕72歳の時、遠州府中見付に「玄妙寺」を建立し、翌年には同府内吉美に妙立寺を建立されました。75歳の時、御弟子玄妙寺第一世日妙上人の一周忌を営み、「諷誦章」を認められました。諷誦章は什門教学の亀鑑となっています。
その諷誦章の脇に「置文」を認め、玄妙寺を本寺と定め、真間弘法寺からの独立を宣言。「直チニ仰イデ日蓮大聖人二帰スル処ナリ。」と「直授日蓮」の教風を立てて法華弘通に邁進されました。76歳の時、京都室町の庵室を妙満寺と名付けました。
77歳の時、天下を三度諌めて用いずんば山林に交わるべしとの故事にならい身延山に入られた日蓮大聖人に従い、洛中弘法を止め故郷の会津に帰られました。
元中9(1392)年〔北朝明徳三年〕正月20日「一旨三通の置文」〔内容は、前述の置文と同じ)を認め、見付の玄妙寺、京都の妙満寺、会津の妙法寺に残し置くよう遺言されました。同年2月28日聖壽79歳。読経唱題の中入寂されました。御廟所は、会津若松市の本山妙国寺にあります。
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